DCコミックの代表的ヴィランであるジョーカーを描いた単体作品が公開された。
一言だけ言いたいことがある。
「この作品が評価されヒットする世界は狂っている」と。
疾患を抱えるアーサーが狂気の街に狂わされジョーカーになる。
物語はただそれだけを描いている。それ以上のものはない。
コミック映画らしい爽快感やアクションは皆無。純粋に人の堕ちていくさまのみが描かれる。
貧困にあえぐ社会的弱者が狂気に支配されていく街に侵される。
上流階級の人間は虐げられている人間には見向きもしない。そんな世界に男は緩やかに狂わされていく。

1980年代を舞台としているが、混沌としたゴッサムの様子は現実世界を連想せざるを得ない。
貧富の差が広がり、誰も助けを差し伸べてくれずそもそも目もくれない。やり場のない怒りと悲しみをどうやって発散させるのか…。
そんなテーマが現実と強く結びついているように見えてしまう。
市長選に出馬するトーマス・ウェインがどことなくトランプ大統領に見えてくるのも現実感をリアルにしている。
ジョーカーは狂気の世界で自らも狂気に染まることで、世界に自分が存在していることを知らしめた。
図らずとも狂気の象徴となることで狂った世界に自分の存在を刻み込む。
これは悪を描いた映画なのだが、社会的弱者から見るとある種のヒーロー映画に見えてくるかもしれない。
アーサーがジョーカーになったのには理由がある。その理由はすべて理解できてしまうのだからつらい。
悪に感情移入してしまうような演出がされているが、狂気を極限まで描くことで彼が悪であると理解させる危ういバランスを保っている。
精神が不安定な時に見ると心にジョーカーが生まれてしまうかもしれない。
それほどに彼が抱く負の感情には理解の余地があるのだ。
消費増税、先行きの見えない社会。現実も混沌としているからこそ、この作品は評価されているのだと感じた。
これは虐げられている人々の慟哭を描いた作品だ。
ただのアメコミ映画ではない。現実と密接にリンクしている。
これは今の世の中だからこそ評価されヒットしているのだろう。
これがバブル期に公開されていたら「気持ち悪い映画」と一蹴されていたかもしれない。
世界に余裕が失われた今だからこそ支持されているのだと強く感じる。
この作品が評価されヒットしている世界は狂っている。
私たちが気づかなうちに、ジョーカーが生まれているのかもしれない。
誰もまだ行動していないだけで、心はジョーカーになっているのかもしれない。
世界に必要なのはバットマンではなくジョーカーなのかもしれない。
そう思ってしまうほど、この映画は現実そのものなのだ。